今日僕はりんごの木を植える

Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.

父がガンになった~腺様嚢胞癌との闘い

 ブログを始めて1か月半が経った。この間に私の人生において大きな転換点となる出来事がおきた。父がガンになったのである。以下、端的にその経緯を述べる。

 

・5月29日:父より電話がある。内容は、ガンになったみたいだ、とのこと。健康診断で肺に複数の影があり、精密検査をした結果、肺に1~1.5cm程度の大きさの腫瘍が4~5個見つかり、小型で多発性のことから、その他の部位に原発巣の存在が示唆された。全身検索の結果、下顎に腫瘍があることがわかった。その腫瘍の病理検査の結果が、6月5日に出るとのことだった。6月5日は一緒に病院に行くことにした。

・6月5日:父と一緒に病院に行く。病理検査の結果を聞く。病名は腺様嚢胞癌。悪性の唾液腺等の分泌腺にできるガンであった。口腔にできるガンは、全ガンの1%といわれ、そのうち9割は扁平上皮癌で、残り1割が非扁平上皮癌とされる。腺様嚢胞癌はその1割に分類されるガンであり、希少ガンに分類される。父の場合、口腔底の右側に原発巣があり、下顎骨に浸潤、肺に転移していた。ステージⅣである。このガンの特徴は、非常に進行が遅い反面、浸潤性が高く、転移・再発しやすく、放射性や抗がん剤に対する抵抗性が高いことである。大変にやっかいなガンである。この一週間でMRI等の検査を行い、6月12日に治療方針について話し合うことになった。

・6月12日:父と母と私の三人で、病院に行く。診察室に行くと、いつもの主治医(30代の助教)は立って待っており、別の先生(頭頸部腫瘍科の教授)が座って待っていた。教授から父のガンの状態について改めて説明があり、治療方針について話があった。手術をするとなると相当規模の大きい手術(1日がかりの手術)となり、原発巣を摘出しても既に肺に転移があり、また術後のQOLを考えると、手術より重粒子線による治療が良いのではないかと提案があった。また、基本的に転移がある場合、重粒子線治療の適応とはならないが、腺様嚢胞癌の肺転移の場合、日本放射線腫瘍治療学会のガイドラインで適応となっており、治療の対象となるはずだとのことだった。そこで、家から一番近い重粒子線治療施設を紹介いただき、6月19日に行くことになった。また、がんパネル検査をするかについて、教授先生よりどうするか聞かれたが、最終的にしないことにした。これについては後日書きたいと思う。また、肺の腫瘍に関しては、多発性であり、手術は不適で、また効果的な抗がん剤もないことから、経過観察となった。

・6月19日:父と母と私の三人で重粒子線センターに行く。担当医とお話とした結果、重粒子線治療の適応にはなるが、手術と重粒子線、どちらが良いかは極めて微妙なラインだとのことであった。その理由としては、重粒子線治療における腺様嚢胞癌の局所制御率は良好だが、父の場合、下顎骨にガンが浸潤しており、下顎骨に重粒子線を照射することになるが、下顎骨に重粒子線を照射すると晩期障害(副作用)として顎骨壊死になる可能性が高く、その副作用で苦労する可能性が高いとのことだった。もう一度主治医と手術について話して、手術にするか重粒子線にするか決めた方が良いとのことだった。ということで、来週また主治医と治療方針についてお話しすることとなった。

 

ここまでが現状である。厳しい状況ではあるが、断固戦い続ける決意である。

 

 

人材をもって城となす

 新型コロナの感染拡大に伴い緊急事態宣言が発令されて1か月近くが経った。感染者数の急激な増加は抑えられてはいるが、通常の生活に戻るまでにまだまだ時間がかかりそうだ。そして、この新型コロナは日本経済にも悪影響が出始め、政府が国民への10万円給付をはじめとして様々な対策を考え、打ち出し始めている。そのような中、与党の公明党よりこの新型コロナによって困窮するための学生に対する10万円の経済援助案が政府に提言されている。

困窮学生に10万円給付 文科相「早急にやりたい」(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

 私はこの案に大賛成であるが、ネットでは賛否両論のようである(以前の全国民10万円給付の時はネットの多くの意見が賛成だったことと比較すると今回は反対が多いように見える、主観だが)。反対意見を見ると、不況でバイトがないといっても選ばなければバイトはあるとか、勉強しないような学生に払うのはどうなのかとか、大学に行けているだけ困窮学生ではないと等だ。確かに理解できないわけではないが、どうも私はこのような意見に賛成できない、いや賛成したくないと言った方がよいか。なぜ私がそのように思うのかつらつらと考えてみる。

 まず、この学生に対する経済的支援の財源は税金であり、私たち国民のお金である。それゆえ、「不真面目で不勉強な学生に10万なんてもってのほかだ!どうせ酒や遊びで消えてしまう!やるなら優秀な学生に限定しろ!」と思っているのだろう。私もそのような思いがないわけではない。実際に給付型奨学金では成績による給付対象基準があったと思う(うる覚え)。ではなぜ私がこの案に賛成なのかといえば根本的に、国は平時からもっと学生を支援すべき、税金を学生のために投じるべきと考えるからである。

 少し話は変わるが、昨今少子化が進み、子供の数が減り、日本はこれまでのような勢いのある経済大国ではなくなりつつある。また、私個人としてはこのまま日本人が絶滅するまで子供が減り続けるとは思っておらず、いずれかの時点で減少から増加に転じると考えているが、いずれにしても当面の間(数十年ぐらい)は、この少子化は続くだろう。そのような状況下で可能な限り日本という国を豊かで住みよい国にするには、優秀な人材の輩出する以外に方法はないと考える(我が国は人以外の資源がない)。つまり、「人材をもって城となす」である。これまでは子供の数がある程度いたため、優秀な人材も一定数輩出できたが、このままでは少子化により優秀な人材の数は減る一方である。つまりこれからの少子化時代に優秀な人材の数を担保するには、優秀な人材の割合を引き上げていく以外にない(これまでが優秀と呼べる人材が世代の人口の1割であれば、今後はそれを2割、3割に増加させなければ優秀な人材の数を維持できない)。その割合を引き上げるためには、教育への投資が必要である。投資とは当たり前だが、利益が出る前に資金を投じることである。私は今回の経済的支援をそのような教育への投資の一環として捉えている。もっと言えば、日本国民が総じて若者、青年へもっと投資が必要だと考えを改めるためにも必要である。確かにこれまでは優秀な学生に投資していれば良い時代だった。しかし、これからは優秀な学生のみならず不真面目、不勉強な学生が少しでも真面目になり、勉強してくれるようにならなくてはいけない時代なのだ。そのために教育への投資が必要なのだ。彼らも自らにどれだけの税金がかけられているかを理解すれば少なからず勉強するようになるだろう。そして、少しでも優秀な学生、頑張る学生の割合が増えてくれれば良いのである。

 ここにきて野党も同様の学生支援の法案を打ち出してきた。なんとか今回の新型コロナを機に、国が学生に対する支援をより一層強化し、そして我々国民がその必要性を理解して、学生に対して支援の拡充が進むことを願っている。

宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃:俯瞰とパラダイムシフト

 宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃(著者:加藤文元氏)は、数学上の未解決問題の一つであるABC予想を証明した宇宙際タイヒミュラー理論Inter-universal Teichmuller Theory:以下、IUT理論)について、提唱者である望月新一教授(京都大学)と交流のある加藤文元教授(東工大)が一般向けに解説した本である。本書ではIUT理論の基本思想のエッセンスを一般の読者に伝えるということに主眼を置き、難しい数式はほとんど出てくることはない(そのおかげで私も読むことができた)。本書を読んだからと言って、IUT理論について理解ができたというにはほど遠いが、これまでの数学とIUT理論が如何に異なるかについては理解ができた。IUT理論ではこれまでの数学一式が成立する舞台=宇宙を複数想定し、それらの宇宙間の往来や関係を論じる理論である。これによりこれまでの足し算と掛け算を分離することが可能となり、この分離がABC予想の証明につながるようである。ただし、ABC予想の証明は副産物に過ぎず、この理論の核心はABC理論を証明することではなく上記のように複数の宇宙を考えることである。

 この理論、特にこの理論の複数の宇宙を想定するとの考え方は数学界にパラダイムシフトをもたらすと著者は本書で言及しているが、そこで私が思ったことは、物事を引いて見る、つまり俯瞰することがパラダイムシフトにつながるということである。これまで一つの宇宙で物事を考えていたところを、その宇宙を俯瞰することによって、その宇宙の外はどうなっているのか、複数の宇宙を想定しうるのではないかと望月教授は気づいたのではないだろうか。この俯瞰することはしばしば科学においてパラダイムシフトをもたらしてきた。例えば、地球上の物体の運動はニュートン力学により近似的に記載できるわけだが、地球からさらに引いて見て、宇宙的スケールの巨視的、光速的な運動を考えたときニュートン力学は成立せず、そしてそのスケールでも成立するアインシュタイン相対性理論が提唱されるに至った。つまり、これまで対象としていた枠を(物理的にのみならず様々な次元で)引いて見たとき、従来見えてこなかったもの見えてくる。つまり俯瞰とはこれまで考えていた次元とは異なる次元を垣間見るための手法の一つといえる。それは、科学の世界のみならず、私たちの普段の生活にも有用である。いつもは、何も考えずにやる作業もそれを俯瞰してみたときに今までは気づかなかった新たな世界を見ることができるかもしれない。

 

「博士漂流時代」を読んで:大学システムの構造的問題と学生本位の質的大学改革

 「博士漂流時代「余った博士」はどうなるか?(著者:榎木英介 氏)を読んだ。この本が発行されたのは今から約10年前の2010年11月である。筆者が当時の科学界の大きな問題であったポスドク問題や高学歴ワーキングプアといった科学人材に関する問題を分析し、その解決策を提案している。この本における筆者の分析、つまり2010年当時の科学界の人材問題に関する現状分析は的確であり、またその解決のために博士号取得者(以下、博士と呼ぶ)を日本社会全体で活用し、博士にとっても、科学界をはじめとした日本社会の発展にとってもwin-winな関係築いていくというその提案も、理にかなっているように思った。

 

 この本が発刊されてから10年が経ったが日本の科学界はどうなったであろうか。現在、いよいよ少子化に拍車がかかり、子供の数が急速に減りつつあるが、大学進学率の漸増に伴い大学進学者数は横ばいである[1]。にもかかわらず、博士課程への進学者数は減り続けており、博士を中心とする科学人材の急速な不足が懸念される[2]。また、国際的に各国の論文数が右肩上がりなのに対して、日本は横ばいであり、これは日本の科学力の低下を示唆すると考えられる[3, 4]。そして、本書において指摘された問題点のほとんどは解決していない。むしろ悪化しているように思える。科学技術立国日本は衰退の一途だ。

 さて、ではどうすればよいのか。このまま日本の科学が死にゆくのを待つだけなのか。この解決のために多くの識者が既に様々な提案を行っている通り、研究費の増額、適正な競争原理の導入、人材の流動性の拡大、研究以外の雑用の軽減等々の現場で生じている諸問題を解決していくしかいない。そして、本書や識者からも指摘されているが、これらの問題は元を辿れば「大学」というシステムの老朽化であり、現代日本の大学システムの構造的問題に起因している。それゆえ、単に小手先でこれらの問題を解決しても根本的な解決にはならない。「大学」というシステムを大きく見直す時期が来ているといえる。

 ここからは本書と離れて私の意見となるが、この大学システムの見直しを行うにあたって眼目に置くべきなのが、「学生」であると考える。というのも、昨今大学改革が叫ばれ、その機運は高まりつつあり、大学、産業界、国がそれぞれの考え、意見をぶつけているが、学生が置き去りになっている感がある。いかに新しい大学システムを考えようとも、そこで教育される学生(将来の日本の科学の発展に寄与する人間)の視点が欠如していては、そのシステムは結局のところ絵に描いた餅であり、当初の想定の機能を発揮せずに終わるであろう。本書の一つの重要なテーマであるポスドク問題も、究極的には国や大学が学生の立場を無視し、政策を推し進めた結果と思えて仕方がない。同じ轍を踏まないためにも、次の大学システムの見直しでは、その学生たちの立場に立って政策が立案されなくてはならない。

 では、学生の立場に立ってどのような大学システムの見直しが考えられるか(私も明確に考えがまとまっているわけではないので、ここからは煩雑な議論になるかもしれない)。まず、大学教育の充実、質の向上である。本書の後半にある識者へのインタビュー部分で言及されていたが、日本の大学、大学院教育の質は諸外国と比較し低いとのことである。その理由は様々あると思うが、私が考える大きな理由の一つは大学教員の業務の多さである。そもそも大学は、教育と研究の両者を担っており、大学に所属する教員もそれゆえ教育と研究の両者、さらにはそれらに関連する雑用を行う(それらのバランスは教員によって違うが)。それゆえ真面目で頑張っている教員ほど慢性的な業務過多に陥っている。これは、教員の教育(授業)に割くべきリソースの低下をもたらしているように思う。そこで、私は、大学における教育と研究の人的分離を行うべきと考える。つまり、大学の教員を教育を担う(授業を行う)教員(教育教員)と研究に専念する教員(研究教員)に分けるべきだと考える。これにより、教育教員は授業にリソースを大きく割くことができ、大学教育の質的向上につながると考える。また、研究教員は授業の負担が減り、研究に割くリソースを大幅に増やすことができる。これにより、大学の教育と研究の両者の充実が可能となる。また、その研究業績に基づき、教育教員を研究教員にする(もしくはその逆)こととで教員間の人材の流動性を保つことにより適度な競争を導入することも重要かもしれない。昨今、上記の意見に似た意見として教育に重点を置く大学(地域大学)と研究に重点を置く大学(研究大学)に分けるべきとの意見もある[5]。というよりも既に研究大学とそれ以外の大学に振り分けがなされている(といってもそこまで研究と教育の機能を分離しているわけではないが)[6]。私もそれについては基本的に賛成である(しかし、地域大学では専門学校にも似た専門的かつ実践的な教育を主とすべきとの意見にはあまり賛成できない)。ただし、それだけでは教員の教育と研究という両者の負担はあまり減らないと考えられるので、教育教員と研究教員の分離は必要と考える。また、話は少しそれるが、これは大学の教員の増員が必要となり、現在余剰博士の働き口としても大きく貢献すると考えられる(その予算はどうするか問題はあるが)。結局のところ、基本的に学生は学ぶために大学に行く。大学教育が充実し、自身がより成長するのであれば、学生にとっては喜ばしいことだろう。

 学生の立場に立って考えるというのは、学生を甘やかすという意味ではない。真に学生のためになることを考えるということである。その点で、現在の大学の定員は大学進学者数と釣り合いが取れておらず、定員割れを起こしている大学も多々見られる。また、そのような学生が本来大学に行くべき学力がないにも関わらず大学に行けてしまうことは健全ではないと考える。これは学生にとっても大学にとっても不幸なことである。そこで、一定の大学・大学院の定員の削減は、大学・大学院に入学する学生の能力を担保するうえで、必要であると考えられる。また、優秀にもかかわらず高校卒業し、そのまま就職する子になんとか大学に通ってもらえるように、経済的な支援(これに関しては現在、大学の一部無償化等の政策により進みつつある)や大学に通う魅力の増大(大卒・院卒が将来のためになるような日本社会の変革)が必要である。そして、みなが嬉々として大学に通い、学び、成長するような社会が訪れれば、それは必然的に博士をはじめとした優秀な科学人材の増加に結び付く。そのような社会が早く訪れるように真に学生の立場に立った大学システムの抜本的改革が急務である。

 

 後半で記した提案については、私の新たなアイデアというよりは既に同様の考え表明しておられる方もいらっしゃるので、二番煎じ、三番煎じ感があるがまああくまでこれは備忘録ですから、、、また、長々書いて、しかもまとまりも悪いような気がするが、あくまで備忘録ですから、、、お許しを。