今日僕はりんごの木を植える

Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.

「博士漂流時代」を読んで:大学システムの構造的問題と学生本位の質的大学改革

 「博士漂流時代「余った博士」はどうなるか?(著者:榎木英介 氏)を読んだ。この本が発行されたのは今から約10年前の2010年11月である。筆者が当時の科学界の大きな問題であったポスドク問題や高学歴ワーキングプアといった科学人材に関する問題を分析し、その解決策を提案している。この本における筆者の分析、つまり2010年当時の科学界の人材問題に関する現状分析は的確であり、またその解決のために博士号取得者(以下、博士と呼ぶ)を日本社会全体で活用し、博士にとっても、科学界をはじめとした日本社会の発展にとってもwin-winな関係築いていくというその提案も、理にかなっているように思った。

 

 この本が発刊されてから10年が経ったが日本の科学界はどうなったであろうか。現在、いよいよ少子化に拍車がかかり、子供の数が急速に減りつつあるが、大学進学率の漸増に伴い大学進学者数は横ばいである[1]。にもかかわらず、博士課程への進学者数は減り続けており、博士を中心とする科学人材の急速な不足が懸念される[2]。また、国際的に各国の論文数が右肩上がりなのに対して、日本は横ばいであり、これは日本の科学力の低下を示唆すると考えられる[3, 4]。そして、本書において指摘された問題点のほとんどは解決していない。むしろ悪化しているように思える。科学技術立国日本は衰退の一途だ。

 さて、ではどうすればよいのか。このまま日本の科学が死にゆくのを待つだけなのか。この解決のために多くの識者が既に様々な提案を行っている通り、研究費の増額、適正な競争原理の導入、人材の流動性の拡大、研究以外の雑用の軽減等々の現場で生じている諸問題を解決していくしかいない。そして、本書や識者からも指摘されているが、これらの問題は元を辿れば「大学」というシステムの老朽化であり、現代日本の大学システムの構造的問題に起因している。それゆえ、単に小手先でこれらの問題を解決しても根本的な解決にはならない。「大学」というシステムを大きく見直す時期が来ているといえる。

 ここからは本書と離れて私の意見となるが、この大学システムの見直しを行うにあたって眼目に置くべきなのが、「学生」であると考える。というのも、昨今大学改革が叫ばれ、その機運は高まりつつあり、大学、産業界、国がそれぞれの考え、意見をぶつけているが、学生が置き去りになっている感がある。いかに新しい大学システムを考えようとも、そこで教育される学生(将来の日本の科学の発展に寄与する人間)の視点が欠如していては、そのシステムは結局のところ絵に描いた餅であり、当初の想定の機能を発揮せずに終わるであろう。本書の一つの重要なテーマであるポスドク問題も、究極的には国や大学が学生の立場を無視し、政策を推し進めた結果と思えて仕方がない。同じ轍を踏まないためにも、次の大学システムの見直しでは、その学生たちの立場に立って政策が立案されなくてはならない。

 では、学生の立場に立ってどのような大学システムの見直しが考えられるか(私も明確に考えがまとまっているわけではないので、ここからは煩雑な議論になるかもしれない)。まず、大学教育の充実、質の向上である。本書の後半にある識者へのインタビュー部分で言及されていたが、日本の大学、大学院教育の質は諸外国と比較し低いとのことである。その理由は様々あると思うが、私が考える大きな理由の一つは大学教員の業務の多さである。そもそも大学は、教育と研究の両者を担っており、大学に所属する教員もそれゆえ教育と研究の両者、さらにはそれらに関連する雑用を行う(それらのバランスは教員によって違うが)。それゆえ真面目で頑張っている教員ほど慢性的な業務過多に陥っている。これは、教員の教育(授業)に割くべきリソースの低下をもたらしているように思う。そこで、私は、大学における教育と研究の人的分離を行うべきと考える。つまり、大学の教員を教育を担う(授業を行う)教員(教育教員)と研究に専念する教員(研究教員)に分けるべきだと考える。これにより、教育教員は授業にリソースを大きく割くことができ、大学教育の質的向上につながると考える。また、研究教員は授業の負担が減り、研究に割くリソースを大幅に増やすことができる。これにより、大学の教育と研究の両者の充実が可能となる。また、その研究業績に基づき、教育教員を研究教員にする(もしくはその逆)こととで教員間の人材の流動性を保つことにより適度な競争を導入することも重要かもしれない。昨今、上記の意見に似た意見として教育に重点を置く大学(地域大学)と研究に重点を置く大学(研究大学)に分けるべきとの意見もある[5]。というよりも既に研究大学とそれ以外の大学に振り分けがなされている(といってもそこまで研究と教育の機能を分離しているわけではないが)[6]。私もそれについては基本的に賛成である(しかし、地域大学では専門学校にも似た専門的かつ実践的な教育を主とすべきとの意見にはあまり賛成できない)。ただし、それだけでは教員の教育と研究という両者の負担はあまり減らないと考えられるので、教育教員と研究教員の分離は必要と考える。また、話は少しそれるが、これは大学の教員の増員が必要となり、現在余剰博士の働き口としても大きく貢献すると考えられる(その予算はどうするか問題はあるが)。結局のところ、基本的に学生は学ぶために大学に行く。大学教育が充実し、自身がより成長するのであれば、学生にとっては喜ばしいことだろう。

 学生の立場に立って考えるというのは、学生を甘やかすという意味ではない。真に学生のためになることを考えるということである。その点で、現在の大学の定員は大学進学者数と釣り合いが取れておらず、定員割れを起こしている大学も多々見られる。また、そのような学生が本来大学に行くべき学力がないにも関わらず大学に行けてしまうことは健全ではないと考える。これは学生にとっても大学にとっても不幸なことである。そこで、一定の大学・大学院の定員の削減は、大学・大学院に入学する学生の能力を担保するうえで、必要であると考えられる。また、優秀にもかかわらず高校卒業し、そのまま就職する子になんとか大学に通ってもらえるように、経済的な支援(これに関しては現在、大学の一部無償化等の政策により進みつつある)や大学に通う魅力の増大(大卒・院卒が将来のためになるような日本社会の変革)が必要である。そして、みなが嬉々として大学に通い、学び、成長するような社会が訪れれば、それは必然的に博士をはじめとした優秀な科学人材の増加に結び付く。そのような社会が早く訪れるように真に学生の立場に立った大学システムの抜本的改革が急務である。

 

 後半で記した提案については、私の新たなアイデアというよりは既に同様の考え表明しておられる方もいらっしゃるので、二番煎じ、三番煎じ感があるがまああくまでこれは備忘録ですから、、、また、長々書いて、しかもまとまりも悪いような気がするが、あくまで備忘録ですから、、、お許しを。